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アルキメデス「哲学及び幾何学の卓越せる全集」
1544年
アルキメデス (c. 287-212 B.C)
 アルキメデスは、古代最大の数学者、物理学者そして、工学者と言って良いでしょう。彼の伝記はプルターク、ポリビウスその他の人の著作によって断片を知る事が出来ますが、それによると彼はイタリアのシチリア島で生まれ、当時の学問の中心地、エジプトのアレクサンドリアに行き、そこでユークリッドの弟子達に教えを受けて数学を研究し、ユークリッド数学の発展に寄与しました。その後シチリアに帰り、国王ヒエロンII世(彼は恐らく王の親戚だったと思われます)に仕え、研究を続け、ほとんど全著作をそこで書きましたが、紀元前 212年、シチリア島がローマ帝国に攻められて陥落した際、ローマ軍の兵士に殺されて生涯を終えました。
 彼は「アルキメデスらせん」の名で知られる揚水機その他種々の機械を発明しましたが、特に、国王とシチリア防衛の為に様々な広域機械、投石機などの兵器を考案したと言われています。その多くはてこの応用による機械で、例えば、国王の命で建造された巨船が重くて進水出来なかった際、滑車とロープを用いててこの原理を応用して船を進水させ、「私に支点を与えてくれれば、地球をも動かして見せる」という有名なセリフを言ったとプルタークは報告しています。またウィトルウィウスはその「建築十書」の中で、国王の冠が純金か否かを、冠を壊さずに確かめる方法は、水の中での重量を計ることによれば良いという事を入浴中に発見し、アルキメデスの浮体の原理を「エウレーカ(見つけた)!」と叫んだというエピソードを述べています。この時に用いられたはかりも実はてこの応用だったのです。更に大きな凹面鏡で太陽光を集め、ローマの軍船にあててこれを炎上させたと言われ、アルハゼンの「光学宝典」の扉絵にはその様子が描かれています。
 彼はこの様な種々の工学技術については、何も書き残しませんでしたが、それ等の技術の理論的根拠となる力学、数学について多くの著作を残したのです。つまり、彼は実践や実験によって得られた結果を、今度は幾何学を用いて厳密に数学的に証明する事によって、力学、数学を著しく発展させたのでした。彼のこの様な学問的方法は後世に広い影響を与え、例えばガリレオも彼の著作に 100回以上もアルキメデスを引用している事で解る様に大きな影響を受け、アルキメデス的やり方で彼の理論の証明を与えています。アルキメデスの多彩な業績のうち、特に重要なものは「てこの反比例の法則」を確立し、重心という概念を創造し、静力学の基礎を築いたこと、円や放物線で囲まれた曲線図形の面積を「取り尽し法」という図形に内接する多角形を辺を細くして行くことによって、図形の面積や円周を、多角形の面積、周に近似させる方法を確立したことなどです。「取り尽し法」は後にニュートンが確立する微積分法の基礎を与えたものです。もちろん「浮体の原理」の発見もそうです。
 彼の著作は一部失われたものもありますが、主としてビザンチン帝国のコンスタンチノープル(イスタンブール)に、ギリシャ語のテキストが、またアラビア語圏に、アラビア語のテキストが残り、これらが中世にラテン語に訳されて読まれていたのです。これ等の論文の出版の最初のものは1501年にヴェニスで出版されましたが、これはほんの断片で、1503年に同じくヴェニスでマーベカの訳の「四辺形、円の求積法」 が出版されました。また1543年にタルターリアがマーベカの訳を用いて「平面の釣合について」と「浮体について、第一部」を出版しています。 しかし、アルキメデスの業績が広くヨーロッパに普及するきっかけを与えたのは1544年の本書の出版で、本書は「浮体について」を含む4つの著作を除いた全著作のギリシャ語原文とラテン語訳を収めています。本書以後、本書に含まれなかったものを含め、また様々の学者が注解を加えて、アルキメデスの著作の出版が続々と行われ、広く研究される様になったのです。彼の力学、光学、数学の影響を受けた人は、一寸挙げて見るだけで、ベネデッテイ、ステヴィン、ガリレオ、ケプラー、トリチェリ、ライプニッツ、ニュートン等があり、アルキメデスの偉大さが判ります。