威廉希尔中文网站

图片

プトレマイオス及びコペルニクスの世界二大体系についての対話
1632年
ガリレオ?ガリレイ(1564-1642)
 この書物は科学そのものに対する直接の貢献という点から言えば、ガリレオの他の主著、「星界の報告」「新科学対話」などに較べるとその貢献は遥かに小さいと言えるでしょう。しかし文化的影響、人々の考え方の枠組みを変えたという点から言えば、これほど影響力を持った書物は歴史上ありません。コペルニクス地動説のパブリツク?アクセプタンスということからいえば、この書物は決定的だったのでした。
   ガリレオはパドヴァ時代、例えばサクロボスコの著書などを解説したりしているように、アリストテレス=プトレマイオス地球中心説を支持していたのですが、コペルニクスの著書を読み、ケプラーと文通して意見を交わしているうちに、コペルニクス太陽中心説が正しいと考え始めていました。しかし、力学の研究でアリストテレス派と対立し攻撃されていた彼は、これ以上の軋轢を避けるためか、天文学上の問題ではあまり発言して来なかったのです。しかし、1610年の「星界の報告」に纏められている様に、望遠鏡を用いて精密な観測を行い、新しい事実を確認した彼は、コペルニクス説は完全に正しいと確信したのです。
 1610年秋には金星も月と同様に満ち欠けをしていることを確認 し、またファブリキウスが発見していた太陽黒点を観測して、それが日の経過に応じて位置が変わることを発見し、太陽が自転していることを推論し、その自転軸を定めました。これら総てはコペルニクス説を支持する有力な証拠ですから、彼は、コジモII世の庇護もあったので、公然とコペルニクス説擁護を発言しだしたのです。アリストレス派のガリレオ非難は強まりましたが、彼はこれらの人々に事実を見て貰おうと考えて、望遠鏡を覗いて見てくれるよう招待したのですが拒否されてしまいました。「この人たちは、真理は自然のなかにあるのではなく、アリストテレス著作の原文照合のなかにのみ発見されるものと考えているのです」と、彼は苦々しげに書いています。これらアリストレス派の学者は法皇庁すなわちキリス ト教教会を動かし、コペルニクス説は聖書の教えに反しており異端であり誤りであるという見解を引き出します。その結果、法皇庁の異端審問所は1616年、ガリレオに対し、コペルニクス説擁護を止めることとこれについての執筆の禁止を通告します。これに逆らうと悪くすると死刑ー焚殺ーですから従わざるを得ませんでした。
 ところが、彼の友人で弟子であり、理解者でもある枢機卿バルベリーニが、推挙されて法皇ウルバヌスVIII世になります。彼は1623年に「試金者」という題の彗星を扱った著書を出版しますが、この中で彼は彗星の運動について述べつつ、地球の運動には注意深く言及 を避けています。この書物の重要性はむしろ彼が用いる研究方法-それは現在でも自然科学研究の基本となっている方法です-を方法論的に明確に示したところにあります。つ